荒れ野の誘惑 3月9日説教 梁在哲牧師 申命記30章15~20節 マタイによる福音書4章1~11節 灰の水曜日から始まる受難節の時、我々は、主イエスの受けられた苦しみと辱めを思い起こしつつ、この時期を過ごしている。主イエスは、公の生涯の歩みの前にサタンからの誘惑を神の御言葉をもって打ち破り、退けた。そして苦しみと辱めに包まれた地上の歩みの中で父なる神が御自身と共に歩んでおられることをお示しになった。主イエスが受けられた誘惑は、昔イスラエルの民が奴隷の国エジプトから解き放たれた後、荒れ野で受けたそのものであった。実際、サタンの誘惑に主イエスが御言葉をもって答えられた全てのことを主なる神は、イスラエルの民に期待しておられた。しかし、奴隷の国エジプトから解き放たれ、荒れ野の旅をし続けた民は、その誘惑に負けてしまい失敗し、40年間、荒れ野をさまよった。 サタンは、いつも、「神の子なら」と言い出して、「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」また、「神の子なら、神殿の屋根の端から飛び降りたらどうだ」と主を誘惑し続けた。しかし、主は、その誘惑にことごとく御言葉をもって答えられ、退けられた(マタイ4:3~6・申命記8:2・詩編91:11~12)。ところが、「神の子なら」というサタンの言い出しは、父なる神に逆う言葉である。それは、主が洗礼を受けられた時、「これは私の愛する子」と天から聞こえたお声に逆うものだからである。イスラエルの民がカナンに入る前に主なる神は、モアブの平野でご自分とモーセに逆う民に第二の律法(申命記)を授けられた。主なる神は、ご自分に立ち帰って死と命の中で命を選ぶなら約束の地カナンを与え、「主なる神を愛し、御声を聞き、主につき従う、それが正しく彼らの命である」と言われた(申命記30:15~20)。 主は、サタンの誘惑を全て打ち破られ、サタンは離れ去った。それはアダムとエバがエデンの園で失敗した以来、人間を支配して来たサタンの敗北の始まりであった。最初のアダムからサタンに支配されて来た人間は、二番目のアダム、キリストによって勝利を取り戻したからである。しかし、サタンは、しばらく離れ去ったことで完全に滅ぼされた訳ではない。サタンは、最後の敗北の後、永遠の刑罰に入るまで絶えなく人間を誘惑し続ける(ヨハネ黙示録20:10)。それゆえ、主は、「我々を試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈るように教えてくださった。「荒れ野の誘惑」は、我々の信仰の歩みにおいても同様のものではなかろうか。殊に、誘惑をもって「主イエスと共に歩もうとする道から引き離そうとする」暗闇の力は、苦しい試練の時にこそ、物凄い勢いで我々に迫って来ると思われる。 それゆえ、神学者中村獅雄先生は、「試練と誘惑」を「試誘」と一つにして述べた。サタンは、常に誘惑をもって主と共に歩もうとする道から我々を引き離そうとしている。ある牧師は、「それは、まるで遠心分離器にかけられている状態」のようなものだと証した。サタンが世の支配者のように主を誘惑したように暴力と大量の虐殺、テロ、偽りに満ち溢れている現実の中で我々は一体、神はどこにおられるのか、どこに隠されておられるのかと叫びたくなる思いに誘惑される。しかし、主が御言葉をもってサタンの誘惑を打ち破られ、退けられたように我々も聖霊の御助けによって日々の御言葉を通して主と共に歩もうとする道から引き離されることなく、前に進み続けたい。そして父なる神を愛し、聖霊を通して御言葉を聞き、御子イエス・キリストにつき従い、永遠の命の望みを得させてくださるように祈り、願う。 |