悪と戦うキリスト

3月16日説教

梁在哲牧師

 

イザヤ書35章1~10節  マタイによる福音書12章22~32節

主イエスとファリサイ派の人々や律法学者たちとの葛藤の発端は、安息日に空腹になった弟子たちが麦の穂を摘んで食べた出来事から始まった。また、主イエス御自ら、安息日に手の萎えた人や悪霊に取りつかれて目が見えず、口の利けない人を癒したことを巡ってファリサイ派の人々は、イエスをどのようにして殺そうかと相談し、彼らの殺意と反感は、より強くなった。しかし、主イエスも彼らの考えを見抜いて厳しく反駁し、対立と葛藤は、益々深くなった。一方、群衆は皆驚いて「この人は、ダビデの子ではないだろうか」と言った(マタイ12:23)。ナザレのイエスこそ、メシアでなければ、そのような奇跡の癒しは、出来ないとすぐ分かったからである。

正に、主イエスの癒しの奇跡の出来事によって「救に主メシアが来られ、メシア王国の輝かしい栄光と、イスラエルの民は、回復される」と告げたイザヤの預言は、成就された(イザヤ35:3~6)。しかし、ファリサイ派の人々は、病人が癒された事実は、否定できなかったゆえに、悪意をもってその癒しの原因を歪めた(マタイ12:24)。彼らは、律法で禁じられていた「魔術」を用いてナザレのイエスが人々を癒したから強い殺意をもってイエスを偶像崇拝者として死刑にしようと企んでいた。そこで主イエスは、ご自身、悪霊の力ではなく、父なる神の霊によって悪霊を縛り上げて追い払われ、悪霊に苦しめられていた人を癒したと、厳しく反駁し、それゆえ、既に神の国は、あなたがたのところに来ていると言われた(26~28節)。

引き続き、主イエスは、聖霊のお働きを知りながらも故意的に逆らい、冒瀆することは、決して赦されないと厳しく戒めた(31節)。聖霊は、自分の罪に気づくように、また、悔い改めるように人々の心の中でお働きになるゆえに、聖霊のお働きを知りながらもわざと逆らい、冒瀆することは、「悔い改めを拒む」ことになり、「悔い改めを拒む」ところに、「罪を赦される」こともないからである。人間は、無知のせいで、また不注意で自分も知らずに、神を冒涜し、逆らうことがあり得るように使徒パウロも、「以前、自分は、神を冒涜し、迫害し、暴力を振るう者であったが、信じていない時、知らずに行ったゆえに、憐れみを受けた」と告白した(テモテⅠ1:13)。

詩編130篇は、宗教改革者ルータに「パウロの詩編」と呼ばれるほど、「悔い改めの詩編」として知られている。イスラエルの民は、バビロンに連れ出され、捕虜となっているのは、自分たちの罪の結果であると気づき、悔い改めた(詩編130:1~4)。キリストの十字架の苦難を覚え、悔い改めつつ、主の復活のゆえに永遠の命への望みにあずかる受難節の時期、わたしたちは、悔い改めを拒み、聖霊のお働きに逆らい、冒涜する「悪と戦うキリスト」に倣って、願う。どうか、悔い改める全ての罪人を赦してくださる父なる神が、聖霊のお働きによってわたしたちの内に罪を悲しみ、悟り、悔い改めの心を新たに起こしてくださるように。そして見張りが朝を待ち望むように主にある完全な赦しと平安にあずかることができるように祈り、願う。

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