受難の予告 3月23日説教 梁在哲牧師 ヨブ記1章1~12節 マタイによる福音書16章13~28節 主イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに巷で自分のことを何者だと言っているかとお尋ねになった。弟子たちは、洗礼者ヨハネやエリヤとエレミヤのような預言者だと噂されていると答えた。そこで主はペトロに、あなたがたは私を何者だと言うのかと言われ、ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた(マタイ16:13~16)。ペトロの告白にイエスは、その信仰告白こそ、ご自分のお体なる教会の礎となると言われ、ペトロに天の国へ導く指導者としての務めを委ねられた(17~19)。ヨブは、全てのものを失われる厳しくて苦しい現実の中で(ヨブ1:1~12)、「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と告白した(ヨブ1:21)。多分、ヨブは、自分を尋ねてくれた友たちとの言い争いの中で悲痛な叫びをあげ、冷やかに笑うなど、自分も知らない内に、過ちを起こしたかも知れない。しかし、それにも拘わらず、その告白を通して、信仰が証されたゆえに、主なる神は、ヨブを祝福してくださった。 ペトロの信仰告白の後、イエスは、自分は、長老、祭司長、律法学者たちから苦しみを受け、殺され、三日目に復活すると予告された。するとペトロは、「イエスをわきへお連れして主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」といさめ始めた(22節)。ペトロの行動は、イエスのことを思うより、むしろ、何故この時、皆に不安を抱かせるようなことを言われるのかと、イエスを非難するものであった。そこでイエスは、ペトロに、「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」とお叱りになった(23節)。ある神学者は、「引き下がれ」の本来の意味は、ただ、その場から退けというよりむしろ、「自分の後ろに下がれ」であると述べた。ペトロの突拍子もない行動こそ、これから歩まれるご自分の十字架の受難と救いの道から「脇へ連れ出す」行動であるがゆえに、イエスはペトロを厳しく叱られた。それは、荒れ野で受けられたサタンの誘惑そのものに他ならないからである。それから、イエスは、弟子たちに、自分の受難を予告するだけではなく、それと同時に「私について来たい者は,自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」とお招きになった(24節)。 しかし、そのお招きは、主イエスと共に十字架を担う道であった。主イエスの「後に続く者」として弟子たちは、ペトロのようにイエスを「脇へ連れ出す者」ではなく、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、主に従う者」にならねばならない。ところが、我々も主に従う道を歩み続ける中で、「人のことを思う」心に傾いてしまい、自分の信仰や自分の奉仕だけを絶対化して、ペトロのように主イエスを「脇へ連れ出す者」者になり勝ちの存在ではなかろうか。ペトロは、その後、何度も主イエスを裏切り、ののしりの言葉さえ口にしたが、しかし、そうであっても、主イエスは、ペトロをお赦し、愛し続けておられた。詩編の記者は、大きな艱難と苦難の時、主なる神に嘆き祈る者の敬虔な姿を歌った(詩編86:5~7)。主イエスも、愛弟子ペトロの裏切りと十字架の苦しみの前にゲッセマネで父なる神に、「父よ、出来ることならこの杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の願い通りではなく、御心のままに」と祈られた。どうか聖霊の御助けによって私たちも主イエスのお祈りの模範に倣って、主イエスを脇へ連れ出す者ではなく、主イエスの御招きに答えつつ、自分を捨てて、自分の十字架を背負って主イエスに従う者になりたいと祈り、願う。 |