聖霊に満たされる新しい心

6月8日説教

梁在哲牧師

 

ヨエル書2章23~3章2節     使徒言行録2章1~11節

弟子たちは、復活された主イエスが天に昇られる前に言われた通りにエルサレムを離れず、御父の約束されたものを待ち望んでいた。そして、主が復活された後、50日目になる五旬祭の日が来て、ついに弟子たちの上に聖霊がとどまった。すると、彼らは、他の国の様々な言葉で語り始めた(使徒2:1~4)。ペンテコステの日に弟子たちの上に注がれた聖霊の様子は、「激しい風」や「炎のような舌」という言葉で表されているが、旧約聖書において神の霊は、「風」やまた、モーセの前に現われ、まるで燃え尽きない柴という「炎」のようなものであった。元々人間の言葉は、同じであったが、バベル塔の出来事を通して高慢になった人間の言葉は、バラバラになった。しかし、聖霊降臨を通して言葉の壁は打ち払われ、人間同士の心の通う交わりが回復され、多様な言葉で福音宣教が出来るようになった。

主なる神が約束されたペンテコステの出来事は、旧約の預言者の言葉であった。預言者ヨエルは、イスラエルが主なる神に立ち帰る時、男女老若、身分と関係なく、全ての人々に聖霊が注がれ(ヨエル2:28~29)、また、主の御名を呼ぶ者は皆、救われると預言した(ヨエル2:30~32)。それは、正に主なる神を信じる者たちの新しい礼拝の始まりであった。しかし、信じない不信仰者たちには、審判の始まりであった(ヨエル3:1~2)。それゆえ、ペトロは、ペンテコステの日にそれらの箇所を用いて神秘的な聖霊の臨在を解き明かした。預言者の預言通り、神の霊が全ての人に注がれることのしるしがエルサレムに集まっていた弟子たちを通して明らかに示された。そして、復活された主イエスが言われた通り、弟子たちは、水ではなく、「聖霊による洗礼」を授けるようになった(使徒1:4~5)。

聖霊降臨を通して言葉の壁は、打ち払われ、人間同士の心の通う交わりは回復されるようになった。ところが、聖霊によって回復されたのは、言葉だけではなく、弟子たちの心もあった。彼らは、主イエスを裏切ってしまった傷ついた心と共に、復活された主イエスが天に昇られた後、不安な心をも抱いていたからである。詩編の記者ダビデは、自分の家臣ウリヤの妻バト・シェバと通じた罪を犯してしまった後、主なる神に「清い心と、新しく確かな霊を授けて下さい」とまた、罪を犯した結果、失われた「御救いの喜びを再び自分に味わわせ、罪の奴隷から解放され、自由の霊によって支えてください」と、願った(詩編51:12~19)。しかし、真の清い心と新しい霊、すなわち素直で正直な霊は、聖霊のお働きによってまた、父なる神のお働きによってのみ授けられるものではなかろうか。

罪を犯した者に求められるいけにえは、うわべだけのものではなく、打ち砕かれた霊である。それゆえ、それは、古い自分を打ち砕いて葬り、悔いる心であり、主なる神は、打ち砕かれた霊と悔いる心をいけにえとしてお受けになられる。ダビデのような神に背いた者にペンテコステの日、新しい霊と新しい心が与えられた。その意味において聖霊は、御子イエス・キリストを通してわたしたちに与えられた父なる神の愛にほかならない。わたしたちに与えられた聖霊によって父なる神の愛がわたしたちの心に注がれているからである(ローマ5:5)。それゆえ、わたしたちは真心をもって父なる神を信じつつ、聖霊の御導きによって「聖霊に満たされる新しい心」をもって御子イエス・キリストの道を歩みたいと祈り、願う。     

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