キリストにあるお選び 6月15日説教 梁在哲牧師 イザヤ書6章1~8節 エフェソの信徒への手紙1章3~14節 使徒パウロは、第3回目の伝道旅行を終えた後、飢饉で苦しんいるエルサレムの教会のためにヨーロッパの教会から募られた献金を携えて、エルサレムを訪問した。しかし、パウロは、逮捕され、ガイサリアの牢屋に2年間、拘束された後、ローマの方に移送された。ところが、辛くて苦しい牢屋の中でパウロは、父なる神、御子なる神、聖霊なる神、三位一体の神を厳かに褒め称えた。それは、父なる神は、その愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みをわたしたちが褒め称えることを願っておられるからであった(エフェソ1:6)。パウロは、先ず、天地創造の前にわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、神の子にしようと、御心のままに前もってキリストにおいてお選びになり、お定めになった「父なる神のあらゆる霊的な祝福」を褒めたたえた(3~5)。 父なる神は、ご自身、「聖なるお方」でおられるゆえに、わたしたちをもご自分の前で「聖なる者」、汚れのない者、神の子にしようと願っておられる。詩編の記者は、全ての民を治められる主なる神に、「主は聖なる方」と、力強い王として裁きを愛し、公平を固く定められる主なる神に、「主は聖なる方」と、また、彼らをお赦し、彼らの咎には報われる主なる神に、「主は聖なるが方」と褒め称えた(詩編99:1~8)。神のお選びと招き、即ち召命の様子は、旧約に於いて様々な形で伝えられている。モ-セは、最初、主なる神から召され、遣わされる際、自分は、口が重く、舌の重い者なのだと、言い訳を挙げて断わった。しかし、最終的には、主なる神の召しにしぶしぶ従った。 ところが、モーセとは対照的に、預言者イザヤは、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と自分自身を強く示した(イザヤ6:8)。パウロは、天地創造の前からお選びになった父なる神の予定を褒め称えた後、「御子イエスによる贖いの恵み」を褒め称えた(エフェソ1:7~9)。罪と死の奴隷であったわたしたちを御子イエスは、ご自分の十字架の犠牲の血潮を身代金として払われ、わたしたちは、その血潮によって罪を赦された。これは、罪と死の奴隷から解放される父なる神の豊かな贖いの恵みによるものである。父なる神は、贖いによる罪の赦しの秘められた計画をわたしたちに知らせるために知恵と理解とをも与えてくださった。 そして、パウロは、「聖霊の保証」を讃美した(エフェソ1:13~14)。父なる神が愛する御子によって与えてくださった輝かしい惠みを褒め称えるように我々は、選び出され、約束された聖霊によって証印を押された。ユダヤ人たちは、割礼を通して主なる神の選民として証印を押された。しかし、キリスト者は、聖霊を授けられる洗礼を通して目に見えない証印を押される。それゆえ、パウロは、聖霊による洗礼は、身分と民族の違いとは関係なく、救いの確実な証印となると証した(コリントⅠ12:13)。御子イエスにある父なる神のお選びは、正に人知を遥かに越える御心であるがゆえに、その秘められた御心を悟るために知恵と理解が求められる。御子イエスにある父なる神の御招きに答えるために、聖霊の御助けを求めつつ、三位一体の神を褒め称えたいと祈り、願う。 |