希望に満ちた悔い改めの言葉

6月22日説教

梁在哲牧師

 

エゼキエル書18章25~32節   使徒言行録17章22~34節

使徒パウロは、アテネでユダヤ人とギリシア人相手に伝道し始めたが、ユダヤ人とユダヤ教に改宗した異邦人には、会堂で律法を用いて、またギリシア人には、哲学を用いて広場で伝道した。しかし、アテネの哲学者たちは、パウロをこのおしゃべりと言った。それは、鳥が種を拾うように断片的な知識を羅列する者だと無視する呼び方であった。彼らは、パウロをアレオパゴスという法廷に連れて行き、「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、どんな意味なのか知りたいのだ」と言った(使徒17:19~20)。最初アテネに来たパウロは、数え切れない程散在していた偶像を見て憤慨したが、「知られざる神に」と刻まれた祭壇を見つけて呆れてしまった(22~23)。不安の中で、漏れなく神々を拝もうとしたアテネの人々のように、内村鑑三先生も主イエスを信じる前には、東西南北、四方の神々に漏れなく拝もうと思い、願いを続けたと告白した。

そこでパウロは、あえて、「知られざる神」をお知らせしようと決めた。彼は、先ず、天地万物を創造され、支配される神は、何か、足りないものもなければ、人間の手によって仕えられる必要もない。アダムを創造され、全地に散らされ、季節を決められる神は、時空間の主であると伝えた(24~26)。そして、手探りで探すように熱心に哲学的な真理を探し求めて来た彼らに、これから、遠く離れてはおられない真の神を探し求めなさいと勧めた。また、天地万物を創造された父なる神は、人間との仲介者として御子イエスをお遣わしになり、人間と交わるように聖霊を送ってくださったと伝え、人間は、神の単純な被造物だけではなく、神にかたどった存在のゆえに、人間の手で造られた偶像を神として拝んではならないと戒めた(27~29)。そして、キリストが来られる前の暗い無知な時代を、父なる神は、見逃してくださったが、しかし、キリストが世に来られて明るい朝となり、「今は、悔い改めなければならない」と促し、その理由を明らかにした。

そして、世に来られたキリストが世の審判者として崇められることは、その復活によって証明されると証した(30~31)。悔い改めのギリシア語とヘブライ語の原語は、人間の視点からではなく、神の視点から物事を見つめて、神の道へ立ち返る意味である。詩編の記者は自分の罪を認め、主なる神にお赦しを求め、主なる神へ立ち返る道をお示し、教えてくださるように願った(詩編25:1~7)。悔い改めは、自分の罪を認める痛みや苦しみを伴うもののゆえに、頑なな心のままでは、到底成し得ないものである。しかし、父なる神は、そのような苦しみや痛みのなかでも自分の罪を認め、悔い改める者をお赦し、新しい命を与えてくださる。その意味において「悔い改め」は、新しい命への「希望に満ちた言葉」に他ならない。預言者エゼキエルは、主なる神の御前に悔い改める者は、救われ、新しい命を与えられると預言した(エゼキエル18:27~28)。

パウロのアテネ伝道の結果は、決して成功したとは言い切れない。しかし、その出来事がきっかけでパウロは、「十字架につけられたキリスト以外のことは、何も知るまい」と心に決めるようになった(コリントⅠ2:1~2)。ところが、死者の復活ということを聞くと、ある者は、あざ笑い、冷やかな言葉を残してその場を立ち去ったが、ある者は、彼について行って信仰に入った者も何人かいた(使徒17:32~34)。人々の冷やかな反応の中で少ない人数の人が信仰に入ったのは、神の救いの摂理に他ならない。戸惑い、迷うわたしたちを父なる神は、受け入れ、お赦しになり、導いてくださることを信じつつ、聖霊の御助けによって感謝をもって「希望に満ちた悔い改めの言葉」を携えて御子イエス・キリストの十字架と復活を証し続けることができるように祈り、願う。

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