主に用いられる大きな喜び 6月29日説教 梁在哲牧師 イザヤ書60章19~22節 フィリピの信徒への手紙2章12~18節 使徒パウロは、第2回目の伝道旅行中、マケドニア人の幻を見て、アジア伝道を断念して、マケドニア州のフィリピで伝道を始め、ヨーロッパ最初の教会を造り上げた。どころが、後にパウロがローマの牢屋に投獄されていることを知ったフィリピ教会の人々は、献金を募って献金と共にエパフロディトをパウロに遣わした。それゆえ、この手紙は、フィリピ教会の献金への感謝状である。先ず、パウロは、周りのことに気を捕らわれ、関心を寄せ過ぎると、教会に分裂や恨みが生じやすくなると戒め、従順でいて、恐れおののきつつ、各々自分の救いを達成するように励ました。しかし、それらのすべてのことは、「わたしたちの內に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられる神」によるものであると証した。(フィリピ2:12~13)。 初代教会の教父アウグスティヌスは、「我々は願う、しかし、神は我々の內に働いて、御心のままに望ませる。それゆえ、我々は行う、しかし、神は我々の内に行わせておられる」と証した。次にパウロは、「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」勧めた(14節)。エジプトから解放されたイスラエルの民は、「不平をぶつぶつ言って」しまった結果、荒れ野で失敗を経験したからである。モ-セは、カナンに入る前に、モアブ平野で、「不正を好む曲がった世代」、つまり異邦人の間でイスラエルの民がどのように生きて行くべきかを、遺言として残した(申命記32:5)。牢屋でパウロは、邪な曲がった時代の中で生きるフィリピ教会の人々に「非の内どころのない神の子として世にあって星のように輝きなさい」と勧めた。 そして、その輝きは、命の言葉をしっかり照らして主が再び来られる日には、彼らは自分たちの走りと労苦は、無駄ではなかったと誇るだろうと励ました(フィリピ2:15~16)。主イエスは、「地の塩、世の光」となるように教えられたが、パウロは、暗くて苦しい牢屋であえて、「世にあって星のように輝きなさい」と勧めた。明るい所では見えづらくて、本当に暗い時にしか見ることの出来ない星の光は、暗い牢屋に捕らわれているパウロのような人々には、はっきりと見えるものではなかろうか。地上の教会は、夜と闇のような様々な悲しみと苦しみを味わい、延いてはキリストの名のゆえに、迫害をも強いられる。しかし、預言者イザヤは光りの源でおられる主なる神のゆえに、救われた新しいエルサレムは「主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆きの日々は、終わり、あなたの民は、主なる神の御前に正しい者とされ、御手の輝きに包まれる」と、告げた(イザヤ60:19~21)。 また、パウロは、「信仰に基づいて捧げられる礼拝」こそ、救いを達成した「しるし」であり、たとえ、自分の血が礼拝の供え物として注がれても、自分は、彼らと共に主に用いられる大きな喜びを抱くようになり、同様に、彼らも自分と一緖に喜びなさいと励ました(フィリピ2:17~18)。パウロにとって、「キリストに行って共にいる」方が遥かに望ましいからである(フィリピ1:23)。詩編の記者は、諸国の民を公平に裁かれ、導かれる主なる神に捧げる礼拝こそ、喜びの源であると褒め称えた(詩編67:2~6)。世の悲しみと苦しみの源は、私たちの罪にあるがゆえに、御子イエス・キリストの十字架の贖いによってのみ、罪は赦され、父なる神の輝かしい栄光に包まれるのではなかろうか。私たちは、救いのしるしとして捧げる礼拝を通して主に用いられる大きな喜びを共に分かち合うことができるように祈り、願う。 |