私たちのために貧しくなられた主 7月6日説教 梁在哲牧師 申命記26章1~1節 コリントの信徒への手紙二8章1~15節 使徒パウロは、飢饉で苦しんでいたエルサレム教会を助けるためにマケドニア州の教会が示した献金の模範をコリント教会の人々に伝える上で、キリストの模範をも示した。マケドニアの人々は、ローマの植民地として迫害を受け、教会の中では、ユダヤ人たちの妨害のため激しい試練を受けていたので極度に貧しくなって来た。しかし、それにも拘わらず、彼らは、満ち溢れる喜びのゆえに、極度の貧しさは人に惜しまず施す豊かさとなったとパウロは伝えた(コリントⅡ8:1~2)。パウロにとって豊かさは、神の恵みによって満たされることであったからである。パウロは、マケドニア州の教会は、「自分から進んで、力に応じて、また力以上に」、「聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に參加するために」、「期待以上に」自分自身を主に献げ、パウロ一行に献げたと伝えた(3~5節)。 また、マケドニア州教会の模範は勿論、キリストの模範にも倣って自分自身を捧げる献金に励むように、特に、信仰、言葉、知識、熱心と愛など、すべての点で豊かな賜物を受けているからこの慈善の業においても豊かな者となりなさいと勧めた(7節)。そのような豊かな賜物は、人を助ける献金によってもっと完全なり、正に画竜点睛のようなことになるからであった。しかし、パウロは、献金について命令ではなく、献金によってコリント教会の人々の純粋な愛が証明されるように勧めた。キリストの模範は、罪と死の奴隷であった我々を解き放ってくださるためにご自分を身代金として払われ、また、貧しい我々が豊かになるために豊かであったのに御自ら、貧しくなられたキリストの贖いの恵みである(コリントⅡ8:9、フィリピ2:6~8)。 詩編の記者は、神などいないと言い切っている愚かな悪人たちが絶えず、貧しい人の計画を挫折させ、恥をかかせる中で、主なる神は、ご自分を信じる貧しい人の避けどころとなられ、救ってくださると褒め称えた(詩編14:6)。それは、貧しい者の避けどころとして世に来るべき救い主、キリストの影に他ならない。また、パウロは、献金によってエルサレム教会の人々には、楽をさせて、コリント教会の人々に苦労をかけるということではなく、神のお働きによって,互いのゆとりも欠乏も釣り合いがとれるようになると証した(コリントⅡ8:13~15)。エルサレム教会がパウロとバルナバを派遣してマケドニアとアカイア州の異邦人に霊的なもの、福音を伝えたゆえに、異邦人たちは、肉のもの、献金をもって彼らを助ける義務があるからである(ローマ15:25~27)。 殊に、パウロは、神のお働きによって釣り合いが取れるようになる奇跡について出エジプトのマナの奇跡の出来事を挙げて証した(出エジプト16:17~18)。また、モーセは、カナンに入る前のイスラエルの民に主なる神より、導き出され葦の海を渡った奇跡の出来事に感謝し、地の実りの初物を献げる上で信仰告白するように命じた(申命記26:5~10a)。それゆえ、主日礼拝において信仰告白をした後に、献金を献げる。父なる神は、豊かな愛のお働きによって人々の間に、また地上の教会同士の間に釣り合いが取れるようにしてくださった。そして御子イエス・キリストは、到底、釣り合いが取れることの出来ないわたしたちのために貧しくなられ、ただ、御恵みによってご自分の十字架の犠牲を通してわたしたちの罪を赦してくださった。どうか、聖霊の御助けによって父なる神の愛の豊かさと御子イエス・キリストの恵みに望みを託しつつ、献身することが出来るように祈り、願う。 |