清い手を上げて祈りなさい 7月20日説教 梁在哲牧師 歴代誌下6章12~21節 テモテへの手紙一2章1~8節 パウロは、ロ-マの監獄から解放された後、再び投獄され、殉教するまでの間に当時、エフェソ教会で牧会をしていたテモテ宛に「教会の公の礼拝」をどのように守るべきかについてその教訓の手紙を送った。我々も日本基督教団信仰告白をもって「教会は、公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝え」と告白し続けている。パウロは、「先ず、第一に、願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のために、特に、王たちやすべての高官のような位の高い人を強調して、彼らのために捧げなさい」と勧めた(テモテⅠ2:1~2)。ところが、「全ての人々のためにささげる」ことは、簡単なことではなく、しかも、自分たちを抑圧し、苦しめている「王たちやすべての高官のような位の高い人のためにささげる」ことは、なお更なことである。 パウロは、何故そのような難しいことをテモテに勧めたのか。実際、パウロ自身、主イエスを信じる人々を迫害し、神に敵対した者であった。しかし、復活された主に出会い、悔い改めて、異邦人への福音伝道者として派遣され、福音は、全ての人に分け隔てなく伝えねばらないと確信したからである。そして、何よりも、主イエスご自身、主の祈りをもって「我々に罪を犯す者を、我らが赦す如く、我々の罪をも赦し賜え」と教えてくださったからである。詩編の記者ダビデは、全ての艱難と苦しみの源は、自分の罪にあると悟り、主なる神の御前では「御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいません」と告白した(詩編143:1~2)。 主の祈りとダビデの祈りで明らかにされたようにパウロは、すべての人々は、神の御前で罪人であるがゆえに、すべての人々のためにしかも、位の高い人々のために捧げなさいと勧めた。それらの全てが「信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送る」ことの出来る唯一の道であり、何よりも、神の御前に良いことであり、喜ばれることで、神ご自身、すべての人々が救われることを望んでおられるからである(テモテⅠ2:2~4)。また、パウロは、父なる神は、ご自身と人との間の仲介者、御子イエスを遣わされ、御子がすべての人の贖いとして御自身を献げられたその証しのために自分は、宣教者、使徒、異邦人への教師として任命され、真実のみを語っていると証した(5~7)。 そして、パウロは教会の公の礼拝において「男は怒らず、争わず、淸い手を上げてどこででも祈るように」望んだ(8節)。ソロモン王も神殿献堂式の際、イスラエルの神と全会衆の前に、両手を天に伸ばして祈った(歴代誌下6:12~13)。我々も主日礼拝、祈祷会、家庭集会、日常の生活の中でいつ、どこでも時間と空間に縛られることなく、清い手を上げて祈らなければならないと思われる。どうか、聖霊の御助けによって清い手を上げて、すべての人々のために願い、祈り、執り成しし、感謝をささげつつ、御子イエス・キリストがすべての人々の贖いとして御自身を献げられたその証しのために、父なる神の御前に良いこととなり、喜ばれる、「教会の公の礼拝」を捧げ続けることができるように祈り、願う。 |