決められた道を走り通す者

8月24日説教

梁在哲牧師

 

エレミヤ書20章7~13節     使徒言行録20章17~35節

使徒パウロは、エフェソ教会の長老たちに最後の別れの挨拶をして第三回目の伝道旅行を締め括った。ところが、滞在していたミレトスという港町からエフェソのほうに人をやって、長老たち呼び寄せた(使徒20:17)。エフェソでの大騒ぎや、ユダヤ人の数々の陰謀から身の安全を守り、またエルサレム教会のため募られた献金と伝道報告を一日も早く伝えるために、そして何よりも出来れば、五旬祭には、エルサレムに着いていたかったからであった。ついに長老たちに出会ったパウロは、先ず、あらゆる試練に遭いながらも主に仕えるために真実と謙遜と忍耐をもって涙を流しながら伝道したエフェソでの3年間の歩みを振り返った(18~19節)。

パウロは、彼らに役に立つことは、公衆の面前でも、方々の家庭においても一つ残らず、ひるむことなく、福音を伝え、そのメッセージの根幹は、いつも「悔い改めと信仰」であった(20~21節)。主イエスご自身もヨハネが捕らえられた後、ガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたからである(マルコ1:14~15)。また、パウロは、自分は、聖霊に促され、告げられた通りに投獄と苦難が待ち受けているエルサレムに行くと告げた。そして、自分の「決められた道を走りとおし」、主イエスからいただいた神の惠みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、命すら決して惜しいとは思わないと告白した(使徒20:22~24)。

ダマスコの途上で復活された主イエスに出会って悔い改めて救われ、異邦人の伝道者として召されたパウロにとって福音は、キリストにおいて表された父なる神の恵みであるがゆえに、投獄と死をも覚悟しながら、自分の決められた福音伝道の道を走りとおしたと告白した。主イエスも弟子たちに、「わたしの名のために、あなた方は、全ての人に憎まれる」と言われた(マタイ10:22)。預言者エレミヤも主なる神に従うがゆえに、人々にあざけられ、憎まれた(エレミヤ20:7~8)。その後、パウロは、父なる神が御子の血によって御自分のものとなさった教会の世話をさせるために聖霊は、長老たちを群れの監督者に任命なさったゆえに、彼ら自身と群れ全体とに気を配って目を覚ましていなさいと勧めた(使徒20:28~31)。

詩編の記者ダビデは、サウル王に追われて洞窟の中に身を隠し、避難している中でも、主なる神に祈り、最後の勝利を確信して「目覚めよ、わたしの誉れよ、目覚めよ、竪琴よ、 琴よ」と主なる神を褒め称えた(詩編57:8~9)。最後に、パウロは、長老たちのために祝福の祈りを捧げ、すべてのことを主に委ね、依り頼んだ。今日の教会、また個人一人一人も、それぞれ信仰の走りにおいて苦難と試練は、いつもその道を阻み、躓かせるものではなかろうか。しかし、その中でも主イエスは、いつも我々と共に歩まれるゆえに、我々は、そのような向かい風を受けながらも決められた信仰の道を走り続けることが許されているのではなかろうか。いつも我々と共に歩まれる主イエスを仰ぎつつ、聖霊の御助けによって互いに祈り合い、目を覚まして、自分の決められた信仰の道を走りとおしたいと祈り、願う。

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