私たちの呻きを共に担われる主 9月7日説教 梁在哲牧師 ハバクク書3章17~19節 ローマの信徒への手紙8章18~27節 使徒パウロは、キリストが再び来られるその時、キリストと共にあずかる将来の栄光を仰ぎながら、現在、キリストと共にあずかる苦難と試練をも明らかにした。先ず、パウロは、全ての被造物は、神のご意思によって虚無に服従し、滅びに隷属され、共にうめき,共に産みの苦しみを味わっていながらも、同時に主イエスが再び来らえる時、贖われることを待ち望んでいると明らかにした。それゆえ、「現在の苦しみは,将来私たちに現されるはずの栄光に比べると,取るに足りないと私は思います」と証した(ローマ8:18~22節)。引き続いてパウロは、主イエスを救い主として信じる者は、既に霊的には、救われたが、体の贖いは、まだ将来のことで、主が再び来られる時、我々の体は、贖われ、完全な救いにあずかるようになり、将来の栄光を待ち望む、その希望によって救われていると励ました(23~25節)。 パウロは、被造物は、ただ、主が再び来られるその日を待ち望んでいるが、キリスト者には、その日を待ち望む希望こそ、救いとなると証した。そして、我々の弱さを知っておられる聖霊は、言葉に表せない呻きをもってその救いを完全なものとして成し遂げるために執り成してくださると証した(26~27節)。預言者ハバククは、南ユダ王国がバビロンによって滅ぼされ、エルサレムが陥落される寸前まで、主なる神の裁きを懇願し、問い続け、最後には、主なる神の救いのゆえに、執り成しの祈りを捧げた。そして木々に花は咲かず、枝は、実りをつけず、収穫の期待を裏切り、田畑は、食物を生ぜず、羊と牛がいなくなる試練の中でも主なる神の救いのゆえに、喜び踊ると告白した(ハバクク3:17~19)。 詩編90篇は、モーセが書き記した最古の詩編として知られているが、イスラエルの民の大半は、その不信仰と罪のゆえに、約束の地に入ることを許されず、荒れ野で死んだ。詩編の記者は、嘆きと苦しみの中でも、主なる神の希望を見いだすことこそ、前進させる力であると信じて、「すべての日々を楽しみ、喜ぶことが出来ますように」と祈った(詩編90:14~17)。父なる神は、御子イエスの十字架の犠牲を通して罪と死の奴隷であった私たちを解き放ってくださった。そして御子イエスは、十字架を担ってくださり、私たちの苦しみ、病い、呻きをも担われた。また、聖霊は、私たちの救いが完全なものとして成し遂げられるように執り成してくださる。どうか、聖霊の御助けによって憂いは、礼拝に、恐れは、信仰に変わり、絶望や落胆は、希望によって癒され、煩いは、讃美の中に消えてゆくように切に祈り、願う。 |