死の先にある希望と慰め

9月14日説教

梁在哲牧師

 

列王記上3章4~15節  コリントの信徒への手紙一15章42~58節

コリント教会の中には、「キリストは、死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、死者の復活などない」と言っている者がいれば、また、「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」と聞く者もいた(コリントⅠ15:12・35)。使徒パウロは、復活についてそのような疑問を抱いている者に向かって死者の復活の本質を解き明かした。パウロは、人間の肉の体は、サタンの誘惑にさらされ、病んで衰弱し、老いて呻きながら死ぬ卑しくて、弱いものであるが、しかし、聖霊に満たされた復活の体は、どのようなものにも犯されない力強くて、神の御前に立つ輝かしいものであると証した(15:42~44)。

そして、最初の人アダムは自然の命の肉の体として土ででき、地に属する者であるが、最後のアダムキリストは、命を与える霊の復活の体として天に属する者である。それゆえ、我々も地に属する人の似姿から天に属する人の似姿へと創り変えられると証した(45~49節)。それは、正に「御自分の息を送って天地万物を 創造し、地の面を新たにされる」主なる神が御子イエスを通して成し遂げられた全く新しい創造である(詩編104:30)。次にパウロは、主が再び来られる時、最後のラッパが鳴ると共に一瞬の内に死者は、復活して朽ちない者とされ生きている者も復活させられ今とは異なる状態に変えられると証した(コリントⅠ15:50~53)。

また、パウロは「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」と、死への勝利を宣言しつつ、歌った(54~55節)。死のとげである罪に刺された人間の涙と恐れは、終りを告げるようになったからである。最後に、パウロは、キリストを信じる信仰によって救われ、死の力から解き放たれ、死への完全な勝利を賜る神に感謝をささげ、信仰を確かなものにし、誘惑や迫害を乗り越えるために主の業に常に励みなさいと勧めた(57~58節)。

ダビデの死後、王になったソロモンは、ギブオンという聖なる高台でいけにえをささげていたが、主なる神は、彼に願い事を尋ねられた。しかし、ソロモンは自分のために富や長寿や敵の命のような名誉を求めず、ただ、訴えを正しく聞き分ける知恵と識別を求めたゆえに、主なる神は、彼の願いをお喜びになり、ご自分の道を步むなら、富と栄光のうえに長寿をも惠もうと言われた(列王記上3:7~14)。父なる神は、御子イエス・キリストを通して全く新しい創造の御業を成し遂げられた。どうか聖霊の御助けによって主にある知恵と識別を求めつつ、主の復活と再臨のゆえに、「死の先にある希望と慰め」を抱いて地上の旅路を歩み続けたいと祈り、願う。

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