言葉の知恵によらない福音

9月21日説教

梁在哲牧師

 

エゼキエル書37章15~28節

コリントの信徒への手紙一1章10~17節

使徒パウロは、「私はパウロにつく。私はアポロに、私はケファに、私はキリストにつく」などと言い合っていたコリント教会の人々に「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし、思いを一つにして、固く結び合いなさい」とキリストの名によって勧告した(コリントⅠ1:10~12)。信仰同士の間で派閥ができてお互いに対立している現実を見て、信仰の中心は、誰かの教えではなく、ただキリストにあるがゆえに、キリストの名によって勧告したのである。分裂は、教会同士の間だけではなく、同じ民族同士の間でも生じて来た。主なる神は、南ユダと北イスラエルに分裂したイスラエルに預言者エゼキエルを通して「私はイスラエルの諸部族を取り、それをユダの木につないで一本の木とする。それらは私の手の中で一つとなる」と告げられた(エゼキエル37:19)。そして、主なる神は、異なる者たちを一つにまとめ、真の平和をお与えになられるとエゼキエルを通して告げられた(37:26)。

パウロは、自分の考えや立場だけを絶対化し、他人のことを排斥する姿勢こそ、「キリストが幾つにも分けられてしまう」結果をもたらす危険性を指摘した(コリントⅠ1:13)。パウロは、キリストに代わって人間を持ち上げる愚かさを、またキリストより人間が高くなる時、教会は、分裂と紛争の渦巻きに吸い込まれる危うさを警戒した。福音伝道と洗礼は、主イエスの至上命令であるにも拘わらず(マタイ28:19)、分派や派閥を煽る人々は、自分たちの勢力を広めるために競い合って洗礼を授け、洗礼すら、紛争の種となっていたからである。また、パウロは、「キリストが私を遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためである」と明らかにした。だからと言ってパウロが洗礼を軽んじた訳ではないが、福音伝道こそ、キリストより命じられた至上の使命であるがゆえに、彼は、哲学的な雄弁などの美しい表現のような「言葉の知恵によらないで福音」を告げ知らせると証した。

何故なら、人間の知恵の言葉こそ、人間を持ち上げてキリストの十字架が空しいものになってしまうからであった(コリントⅠ1:17)。詩編の記者は、バビロンの捕囚となっていたイスラエルの民がペルシャ王ゴレスの帰国命令によってエルサレムに帰還した際、エルサレムの神殿と城壁を再建するように導いてくださり、追いやられ、砕かれた心の人々を癒し、その傷を包んでくださる主なる神を褒め称えた(詩編147:2~3)。それは、正に来るたるべき苦難のメシアが受けられる傷によって私たちが癒されるキリストの十字架の影に他ならない(イザヤ53:5)。父なる神は、御子イエスの犠牲を通して罪と死の奴隷となっていた私たちを解き放ってくださり、御子イエスは、十字架の上で刺し貫かれ、打ち砕かれたご自分の傷によって私たちの打ち砕かれた心を癒し、その傷を包んでくださった。どうか聖霊の御助けによってキリストの十字架が空しいものになってしまわないように「言葉の知恵によらない福音」を宣べ伝えたいと祈り、願う。

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