主の憐れみを分かち合う者 9月28日説教 梁在哲牧師 創世記45章1~15節 ヤコブの手紙2章8~13節 ヤコブの手紙は、パウロ書簡と区別して、ペトロの手紙、ヨハネの手紙、ユダヤの手紙と共に普通書簡、或いは共同書簡と呼ばれる。ヤコブは、信仰による救いに偏って愛の実践をないがしろにしていた当時の教会に警鐘を鳴らして、「わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」と戒めた(ヤコブ2:1)。何故なら、教会の中で金持ちは、貧しい人を蔑ろにして、互いに非難し合い、延いては、神にも恨みを抱いたからである。また、聖書に従って(レビ19:18)、隣人を自分のように愛することこそ、人を分け隔てしないことであると勧めた。そして、もし、隣人を自分のように愛することなく、人を分け隔てする者は、違反者と断定されると戒めた(ヤコブ2:8~9)。何故なら、父なる神は、何のいさおもなくて、罪のゆえに、死ぬべきわたしたちを憐れんでくださり、御子イエス・キリストの十字架の犠牲を通して救ってくださったからである。 ところが、その恵みと憐れみは、新しい義務を伴うゆえに、ただでいただいた救いの恵みと憐れみを隣人に分かち合わねばならないし、そうしない者は、人を分け隔てする違反者と判定される。人を分け隔てすることは、人をうわべで判断することとなり、「隣人を自分のように愛しなさい」と命じられた主イエスの新しい掟に逆らって罪を犯す者になる(マタイ22:39)。その人は、罪という主人のために働くことになり、その働きへの報酬は、死である。ヤコブは、人間を罪に定め、抑圧するモーセの律法から(ガラテヤ3:10)解放され、自由をもたらす律法、即ち、主イエスの福音に属する者は、主が再び来られる時、主の御前で裁かれる者として語り、ふるまうように勧めた(ヤコブ3:10~12)。最後に、ヤコブは、人を分け隔てて、うわべで人を判断して貧しい人を虐げる者には、憐れみのない裁きが下されるが、「憐れみは、裁きに打ち勝つ」と戒めた(ヤコブ3:13)。 何故なら、神は、「怒りの器」として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれ、ご自分の豊かな栄光をお示しになりため準備しておられた者「たちに「憐れみの器」としてユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださったからである(ローマ9:22~24)。ヨセフは、自分を苦しめて殺そうとした兄弟たちをエジプトで再び出会い、彼らを赦した。ヨセフの赦しは、自分もまた、主なる神に赦されていることに気づいた上で湧き出る憐れみから始まる(創世記45:14~15)。詩編の記者も人の苦しみに心を寄せて「憐れむ者」を、ご自分の幕屋に宿り、聖なる山に住むことができるように導いてくださる主なる神を褒め称えた(詩編15:1~3)。父なる神の愛によって守られ、永遠の命へ導いてくださる御子イエス・キリストの憐れみを待ち望みつつ、聖霊の御助けによって互いに弱さを受け入れ、赦し合い、主の憐れみを隣人に分かち合うことができるように祈り、願う。 |