キリストの十字架に示された愛

10月5日説教

梁在哲牧師

 

出エジプト記20章1~17節  エフェソの信徒への手紙5章1~5節

使徒パウロは、キリストに結ばれて新しくなった者に、「神に愛されている子どもですから、神に倣う者となりなさい」と勧め、その根拠は、「神に愛されている子ども」という身分にあると解き明かした(エフェソ5:1)。聖書には、人と教会に倣い、また、その働きに倣う者が登場するが、本節においてのみ、「神に倣う者」となっている。主イエスも山上の説教で「あなたがたの天の父が完全であられるようにあなたがたも完全な者となりなさい」と神に倣うように教えられた(マタイ5:48)。そして弟子フィリポに「ご自分を見た者は、父を見たのだ」と言われた(ヨハネ14:9)。それゆえ、神に倣うことは、キリストに倣うことに他ならない。

そしてパウロは、神に倣う者になる上で「あなたがたも愛によって步みなさい」と勧めた(エフェソ5:2)。その愛は、わたしたちを愛して、ご自分の生涯を香りのよい供え物として、また、ご自分を十字架の犠牲として神に捧げてくださった「キリストの十字架に示された愛」に他ならない。また、神に倣う者として偶像崇拝に因んだ様々な悪行や淫らな行いを避けて、汚れたことや貪欲な言葉を口にすることなく、丁寧かつ有益で、神に栄光を帰す、「感謝」を表わしなさいと勧めた上で偶像礼拝者は、キリストと神の国を受け継ぐことはできないと戒めた(3~5節)。詩編の記者は、「不当な利益や空しいもの」即ち、「世の貪欲な道や財産、名誉、楽しみに心を奪われないよう」、また、「真実を自分の口から奪わないよう」、主なる神に願った(詩編119:36~37・43)。  

シナイ山で授けられた十戒において主なる神は、人間が示した信仰に応じてお答えになる(出エジプト20:1~17)。しかし、新約において父なる神の愛は、「御子イエス・キリストの十字架の犠牲」を通して無条件で私たちに与えられる。それゆえ、何ものも、「御子イエス・キリストの十字架の犠牲」に示された「父なる神の愛」から私たちを切り離すことはできない。父なる神に愛されている子どもとなり、御子イエス・キリストに結ばれ、新しい者となる関係の中で聖霊は、私たちの心に信仰を刻み付け、永遠の命への希望を与えてくださる。その新しい関係の中に生きる恵みと喜びを分かち合うことこそ、私たちの証しになるのではなかろうか。父なる神が御子イエスの十字架を通して示された愛によって歩むように招かれた者として聖霊の御助けによって感謝を表わしつつ、世の旅路を歩み続けたいと祈り、願う。

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