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神のまなざしのもとに歩む者 11月2日説教 梁在哲牧師 創世記4章1~10節 ヨハネの手紙一3章11~18節 今朝、私たちは、御子イエスにおいて神の子とされ、聖霊の御助けによって目に見えないものを望みつつ、先に天に召された信仰の先達を記念し、地上において「神の愛のまなざしのもとに歩まれた」信仰の姿を覚えつつ、召天者記念主日礼拝に臨んでいる。悪魔に属して罪を犯した者として、カインは、弟アベルの行いが正しかったにも拘わらず、その義を見ながら悔い改めなかったとヨハネは指摘した。そして、アベルを殺してしまったカインは、悪い者に属して、カインのようになってはならないと戒めた(ヨハネⅠ3:11)。詩編の記者ダビデは、自分の家来ウリヤの妻バドシュエバを犯した罪をナタンと主なる神に告白し、悔い改めた。ダビデは、自分の罪に気づき、悟るようになり、悔い改める者には、主なる神の御前で異議を唱える余地はないと告白し、悔い改めた(詩編51:5~6)。 ヨハネは、キリストの愛に倣って兄弟を愛する者は、死から命へと移されるが、兄弟を憎み、愛することのない者は、死に止まったままで皆、人殺しで、永遠の命が止まっていないと戒めた(ヨハネⅠ3:14~15)。カインとアベルの兄弟関係を通して人間の堕落の姿が示される。主なる神は、羊を飼ったアベルの献げ物に目を留められたが、土を耕したカインの献げ物には、目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた(創世記4:2~5)。激しく怒って顔を伏せたカインに主なる神は、「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」と言われた(4:6~7)。しかし、カインは、主なる神の言葉に素直に従うことなく、怒りの感情に支配され、弟を野原に誘い出して殺してしまい土の中に埋めた。 そこで主なる神は、「お前の弟アベルは、どこにいるのか」と言われたがカインは、「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と嘘をついて答えた」(4:9)。カインの嘘は、兄弟の命を奪うだけではなく、兄弟と主なる神との関係をも断ち切る悲惨な言葉となった。弟に比べて劣等感や喪失感のゆえに、憤りを抱いたカインの歪んだ心とその悲劇は、どこから来たものであろうか。それは、エデンの園でアダムとエバが主なる神から禁じられた善悪の知識の木の実を食べた時にまで遡る。カインは、その原罪のゆえに、自分の判断基準で相手に比べて優劣をつけ、主なる神より認められたい欲望に負けてしまったからである。しかし、父なる神は、測り知れない愛をもって分け隔てなく、私たちを常に見つめてくださる。 その独り子を賜った程、世を愛して下さった「父なる神の愛のまなざし」は、私たち一人一人に注がれる。使徒パウロも、御子イエスが私たちのために死んでくださったゆえに、神は私たちに対する愛を示されたと、父なる神の愛のまなざしを、証した(ローマ5:8)。我々が覚えて、思い起す信仰の先達たちの姿は、カインが「知りません」と自分の弟の存在を否定して、忘れ去られたような姿ではなく、正に、「神の愛のまなざしのもとに歩まれた者」として、いつも我々と共にいる。御子イエス・キリストを通して注がれる父なる神の愛のまなざしを、聖霊の御助けによって証しつつ、「神の愛のまなざしのもとに歩まれた信仰の先達たち」の模範に励まされ、世の旅路を続けたいと祈り、願う。 |