神の友と呼ばれた者

11月9日説教

梁在哲牧師

 

創世記15章1~18節    ヤコブの手紙2章21~26節

ヤコブは、行いを伴う信仰の模範をアブラハムとラハブを挙げて示した。アブラハムは、イスラエルの信仰の父として崇められる一方、ラハブは、異邦人の女性でしかも、娼婦という卑しい身分の者で、二人は対照的な人物であった。しかし、二人の信仰は、彼らの行いによって証され、完成されたという共通点を持っている。主なる神は、年老いて子に恵まれなかったアブラハムに星の数ほどの子孫を与えると約束してくださった。年老いたアブラハムにとってその約束は、信じがたいものであったが、しかし、アブラハムは、主なる神の約束の言葉を信じて、主なる神は、それを彼の義と認められ、主なる神は、アブラハムと契約を結ばれた(創世記15:5~6・18)。詩編の記者は、アブラハムと、とこしえの契約を結ばれ、イスラエルの歴史を導いてくださる主なる神を褒め称えた(詩編105:8~11)。

主なる神は、その契約を通してアブラハムとその子孫を通して祝福を広められ、その約束を必ず成し遂げられるご自分の御旨を表わされた。アブラハムが信じたのは、自分の力や能力、また自分の持っていたものではなく、主なる神の語られる約束の言葉であった。その信仰によってアブラハムは、義とされ、神の民として生きる出発点となり、信仰の父と呼ばれるようになった。それゆえ、ヤコブは、「『アブラハムは、神を信じた。それが彼の義と認められた』という聖書の言葉が実現し、彼は、神の友と呼ばれた」と証した(ヤコブⅡ2:23)。また、ヤコブは、「神が私たちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによるものであり、アブラハムの信仰は、その行いと共に働き、行いによって完成される」と証した(ヤコブⅡ2:21~22)。

ヤコブは、アブラハムの行いは、決して信仰から離れたものではなく、その信仰と共に働き、信仰を証明し、アブラハムの信仰は、信仰に基づいたその行いによって完成されたと証した。ヤコブにとって行いは、決して律法や道徳心から出て来るものではなく、信仰から出て来る行いによって信仰は、十分に補われ、信仰本来の働きが出来るようになる時、信仰は、完成されるからである(24節)。ヤコブは、「娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって義とされた」と証した(25節)。ラハブの行いは、単なる道徳的なものではなく、主なる神が、モ-セを通してイスラエル民を奴隷の国エジプトの国から救い出され、エリコの地をお与えになることを信じる信仰から出て来たものであったからである。

ヤコブは、行いの源は、信仰であるがゆえに、「行いを伴わない信仰は、死んだ」と証した(26節)。我々は、アブラハムの霊的子孫として、また、神の約束の言葉に信頼を寄せつつ、神の民として招かれ、世の旅路を続けている。年老いたアブラハムを用いられたように父なる神が、我々をも御業の器として用いてくださるゆえに、厳しい現実の中でも我々は、神の御言葉によって望みを与えられ、前に進む力を得られるようになるのではなかろうか。父なる神は、御子イエス・キリストを十字架の犠牲に捧げられ、ご自分の愛をお示しになられた。我々は、アブラハムと結ばれたとこしえの契約によって生かされ、神に愛され、「神の友と呼ばれる者」として、与えられた信仰を次の世代に受け継がせることが出来るように祈り、願う。

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