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共にいて導かれる主 11月16日説教 梁在哲牧師 出エジプト記6章2~13節 へブライ人への手紙11章23~29節 ヘブライ人への手紙の記者は、アブラハムを中心にしてイサクとヤコブとヨセフを挙げて彼らの信仰の模範を証しし、奴隷の国であったエジプトからイスラエルの民を導く上で見舞われた様々な試練と困難を信仰によって乗り越えたモーセをも挙げた。ところが、モーセの両親は、信仰によって生まれたばかりのモーセを三ケ月間隠したが、その子の美しさを見、ファラオ王の命令を恐れなかったからであった(ヘブライ11:23)。その子は、単なる外見だけではなく、「主なる神の御目に適った美しい子」であったからである(使徒7:20)。そして成人した時、モーセ自身も信仰によってファラオの王女の子と呼ばれることを拒んだ。何故なら、エジプトの王になって不信仰と偶像崇拝にふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、信仰から離れた世の栄光は、はかない罪の楽しみと見做したからである。(ヘブライ11:24~25)。 手紙の記者は、イスラエルの民の指導者モーセが受けるあざけりは、来るべきメシアが受けるあざけりの影であると証した。モーセは、自分の受けるあざけりは、来るべきメシアが受けるあざけりのゆえに、与えられる報いに目を向けていた。それゆえ、モーセは、主なる神に選ばれた民をエジプトの国から解放するために自分が受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と見做した(26節)。ついに、モーセは、目に見えない主なる神を見ているようにして、耐え忍んだゆえに、ファラオ王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去るようになった。モーセは、エジプトを立ち去る前、滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように信仰によって過越の食事をし、イスラエルの民に子羊を屠ってその血を戸口に振りかけるように命じた(27~28節)。過越祭は、モーセの信仰にまで遡り、過越祭の小羊として屠られたキリストのお体と血潮を覚え、聖餐の恵みにあずかる。 奴隷の国から解放され、葦の海をくぐり抜けたイスラエルの民の姿は、小羊なるキリストの血潮によって罪と死の奴隷から贖われ、水をくぐり抜ける洗礼の儀式と重なる。最後に、モーセは、出エジプトにおいて最大の試練に見舞われたが、葦の海の前に、モーセとイスラエルの民は、信仰によってそれらを乗り越えた。イスラエルの民は、まるで陸地を通るように紅海を渡ったが、エジプトの軍隊は、主なる神を信じるどころか、試そうとして溺れて滅ぼされた(29節)。モーセは、自分の同胞を迫害したエジプト人を殺してエジプトから逃亡し、ミデアンで身を隠して羊飼いをしていた。その際、燃え尽きぬ紫の中から主なる神よりイスラエルの民が叫んでいるエジプトの国に遣わされと告げられた。主なる神は、エジプトの国で苦しんでいるイスラエルの民に希望を与え、ご自分のまなざしを注がれ、救いの約束を改めるためにモーセを召された(出エジプト6:6~7)。 モーセは、主なる神より命じられた通りイスラエルの民に告げたが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失い、モ-セの言うことを聞こうとはしなかった(9節)。その姿は、不安や恐れのゆえに、意欲を失い、進むべき道が見えなくなっている私たちの姿と重なる。詩編の記者は、苦難に直面して主なる神の救いを疑いながらも昔、エジプトの国で御腕をもって自分の民を贖われた主なる神の救いの恵みを振り返って再び確信を得て、御業を褒め称えた(詩編77:12~16)。いつも共におられて見つめ、導いてくださる主イエスを信じて歩む上で与えられる確信こそ、私たちの救いとなり、助けとなるのではなかろうか。モ‐セのように主イエスより世に遣わされ、主の救いと助けの約束に生かされる者として、いつも、「共にいて導かれる主」に従って歩みたいと祈り、願う。 |