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御心によって選ばれた者 11月23日説教 梁在哲牧師 サムエル記上16章1~13節 テモテへの手紙一1章12~17節 使徒パウロは、ローマの牢屋から一時、解放され、小アジアを巡回する途中でエフェソを離れたから間もなく、信仰の息子テモテ宛に第一の手紙を書き、再び逮捕され、ローマの牢屋で第二の手紙を書いたと言われている。パウロは、異端の偽りの教えを考えれば考える程、自分に与えられた主イエスの福音に感謝した。パウロは、決して自分が主イエスを選んだとは思わずに、主イエス御自ら、罪人の中で最たる者であった自分をお選びになり、忠実ではない自分を忠実な者と見なして福音伝道の務めに就かせてくださった主の恵みに感謝し、それらを証した。その意味においてこの手紙の中で綴られている証しは、パウロの証しの中で最たるものであった。(テモテⅠ1:12~17)。 サウル王の不従順のゆえに、主なる神は、預言者サムエルを通して次の王としてダビデをお選びになった。それは人間の目には、思いもよらないものであった。サムエルさえ、エッサイの息子たちの中で外見や体格の優れた者を王としてふさわしく思った。しかし、主なる神は、サムエルに「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と言われ、結局、羊飼いであった末子ダビデをお選びになった(サムエル上16:7)。主なる神は、人間の目にふさわしく見える力あるサウル王を退けられ、ご自分の御心によってダビデをお選びになった。主なる神の御心によって選ばれたダビデは、羊飼いのように人々を守り、導く王として立てられた。 詩編の記者も主なる神がどのようにダビデを見いだし、お選びになり、聖なる油を注ぎ、祝福してくださったのかその御業を褒め称えた(詩編89:21~30)。さて、パウロは、悔い改める前に犯した自分の過去の罪のためにいつも心を痛め、一生繰り返して告白し続けた。そのようにパウロの深い罪認識は、漠然なものではなく、具体的な自分の体験に基づいたものであった。それゆえ、パウロは、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です」と告白した(テモテⅠ1:15)。それは、聖餐式において招きの言葉として朗読され、正に福音全体を一言で表す箇所である。ところが、パウロだけではなく、古代教父たちや宗教改革者ルータとカルヴァンなど偉大な教会の指導者たちも、皆例外なく、そのような深い罪認識を抱えていた。 パウロにとって主の恵みは、自分の罪が赦され、福音伝道のために召されただけではなく、主イエスへの信仰と、周りの人々への愛をも共に溢れる程、与えられたものであった。「罪人の頭」であったパウロは、主イエスの御憐れみと限りない忍耐によって「救われた者として人々の手本となる者」となった(16節)。神の救いの恵みのゆえに、パウロの心は、感激に溢れ、神の誉れと栄光を褒め称えた(17節)。主イエスの限りない忍耐が求められる程、我々は、主の御前に罪人の頭であることを告白す。教会創立28周年を迎える我々は、厳しい状況の中でも神に信頼して歩んで来た日々の積み重ねによって報われることに望みを託す。我々は、「御心によって選ばれた者」として日々の地道な信仰の歩みを何よりも大切にしつつ、一人一人の心を見てくださる主のまなざしに信頼を寄せて、この一年間の恵みの実りを分かち合いたいと願う。 |