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戒め、励まし合いなさい 12月7日説教 梁在哲牧師 エレミヤ書36章1~10節 テモテへの手紙二4章1~8節 使徒パウロは、再び投獄されたローマの牢屋で、愛する霊的な息子テモテ宛に手紙を送った。パウロは、差し迫って来る自分の死、また、主の最後の審判のゆえに、主に忠実に従いつつ、最後まで伝道者としての務めを成し遂げるように勧めた。パウロは、先ず、御父と御子の御前で、そして御子イエスが再び来られるその時、成し遂げられる神の国を思いつつ、厳粛に命じた(テモテⅡ4:1)。御子イエス、罪と死の奴隷であった私たちを解放してくださるために救い主として世に来られたが、主が再び来られる時、使徒信条の通り、「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」、審判の主として来られるからあった。 また、パウロは、穏やかな時だけではなく、投獄され、鎖に縛られ、死が迫って来る厳しい現実の中でも、御言葉を伝え、罪を犯した者には先ず、自分の罪に悟るようにとがめ、慰め、励ました後、従わない者には、戒めるように命じた(2節)。 ところが、いつの時代にも人々は、良い薬のような厳しいとがめは嫌がり、口に甘くて耳障りが良いこと、自分に都合の良いことだけを聞こうとし、真理の言葉から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになる(3~4節)。南ユダ王国、ヨシヤの子ヨヤキム王の第四年に主なる神の御言葉が預言者エレミヤに臨んだ。 しかし、それは、ユダヤの民にとって耳障りな言葉で、都合の悪い災いのことばかりの言葉であった。主なる神は、「ご自分がくだそうと考えているすべての災いを聞いて、人々が、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない」と思われ、そうすれば、彼らの罪ととがを赦すと思われたからであった(エレミヤ36:1~7)。いつも時代にも、都合の悪くて耳障りな言葉は、人々に拒まれ、嫌がれて来た。しかし、神の御言葉は、燃やされ消されようとしてもそれを聞いた人々が、「それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない」と思われる神の忍耐と愛によって語り続けられる。 引き続き、パウロは、先ず、自ら慎み、次は、人々から受ける苦しみを忍耐し、最後に神より命じられた福音伝道者の務めを忠実に果たすように勧めた(テモテⅡ4:5)。パウロは、世を去る時を静かに待ちながら、自分の信仰の一生を振り返ってキリストより与えられた力によって自分の使命を成し遂げ、信仰を守り抜いたと勝利の歌を歌った。そして、最後に正しい審判者である主が再び来られ、授けられる義の栄冠を独り占めではなく、灯に油を用意して花婿を待ち望んでいる賢い乙女たちのように主が来られるのをひたすら待ち望む人にも授けられると、慰め、励ました(6~8節)。 それらは、このアドベントの時、主イエスが再び来られるその日をひたすら待ち望むすべての人々に与えられる希望と慰めのメッセージではなかろうか。詩編の記者も、「主の裁きは、ことごとく 正しくて、金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」と正しい審判者である主なる神を褒め称えた(詩編19:10~11)。パウロは、自分の臨終の枕の前で、悲しみのゆえに、途方に暮れる霊的な息子テモテを父のように慰め、励ました。このアドベントの時、使徒パウロを通して語られる主イエス・キリストの希望と慰めのお声を周りの人々と分かち合うために互いに戒め、励まし合うことができるように祈り、願う。 |