闇の中に届けられた光

12月21日説教

梁在哲牧師

 

イザヤ書52章7~14節   ヨハネによる福音書1章1~14節

使徒ヨハネは、被造物の中で人間だけがこの命の光に照らされる唯一の存在となるゆえに、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ、得られる永遠の命が光のように人間を照らすと、こう証した。「言のに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:4~5)。ところが、その永遠の命の光は、アダムとエバの堕落のゆえに、暗闇の中に消え去ったが御子イエス・キリストによって回復され、暗闇の中で輝くようになった。預言者イザヤは、主なる神はイスラエルの民をバビロンから解放してくださり、エルサレムは、回復され、救われる日の幻として良い知らせを伝える者の美しさと見張りの喜びの歌を告げた(イザヤ52:7~8)。

イスラエルの民がバビロンの捕囚から解放される喜びのお知らせを携えて、山々を行き巡り、エルサレムに向かって叫ぶメッセンジャの叫ぶ声に耳を傾けると、その声は、正に良い知らせとなり、その足は、如何に美しいことか。その光景は、正に罪と死の奴隷から解放される良い知らせ、福音を携えて来られるキリストの姿に他ならない。それゆえ、使徒パウロは、こう証した。「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです」(ローマ10:15)。見張りは、山々を越えて来たメッセンジャを見つけて、良い知らせを聞いて一斉に声をあげ、エルサレムの町は、瞬く間に、歓喜の声に包まれる。見張りが、走って来るメッセンジャの姿からエルサレムに帰られる主なる神を目の当たりしたように真の見張りは、来られるキリストに気づき、福音をすぐ悟る聖徒らに他ならない。

また、イザヤは、バビロンによって滅ぼされたエルサレムは、廃虚となったが、主なる神は、ご自分の民をバビロン捕囚から解放して慰めてくださったゆえに、見張りと共に歓声をあげ、歌うように告げた。そして、主なる神がペルシヤの国を通してバビロンを滅ぼされ、イスラエルの民を解放してくださったゆえに、諸国は、主なる神の救いを仰ぐと告げた(イザヤ52:9~10)。その光景は正にキリストの福音が地の果てに至るまで全ての人々に宣べ伝えられる影である。詩編の記者は、諸国の王たちがメシアにひざまずき、ひれ伏して、地の果てに至るまで全ての国々が救い主の嗣業となり、全ての国々を治められるメシアの統治を褒め称えた(詩編2:8)。主なる神は、イザヤを通してエルサレムに帰る民にバビロンの汚れた偶像から離れ、身を清め、出るように命じられた。

しかし、出エジプトの時、主なる神が昼には雲の柱で夜には炎の柱で見守ってくださったようにバビロンから出る際にも急いで逃げ去る必要はなく、堂々と出るように勧められ、苦難の僕、メシアは、苦難を通して栄え、高く上げられ,あがめられると告げた(イザヤ52:11~14)。それは、正に十字架の苦難を通して救いと贖いの御業を成し遂げられ、復活され、天に昇られ、父なる神の右に座しておられる御子イエス・キリストに他ならない。御子イエス・キリストは、わたしたちの苦しみと悲しみの真ん中に届けられたまことの光として世に来られ、共にいてくださる。このクリスマスの朝、まことの光が我々の暗闇の中に届けられた喜びをお祝いつつ、「闇の中に届けられた光」がクリスマスをお祝いすることすらできない人々にも届けられ、照らされるよう共に祈りたい。

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